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秘本衆道会
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「仏教美術=ショタコン美術」説

仄聞するところによりますと……

奈良興福寺が蔵する阿修羅像に恋する人が、最近やたら増えているようですね。

前年に国立博物館で開催された「国宝 阿修羅展」が、相当の動員数(80万人突破!)を記録したことは記憶に新しいですが、どうもその影響らしき。


なにせweb版『スポーツニッポン』にも、


イケメンに女子はうっとり “阿修羅グッズ”飛ぶように売れる


なんて記事が載るぐらい。

こりゃもう、日本を代表するマスコットといやあピカチュウかキティか阿修羅きゅんか!

というぐらいの勢いになりつつありますねウハハ。


また、その勢いに乗じて、本家興福寺の公式サイト中にも


阿修羅ファンクラブ


ができる始末。

『見仏記』でおなじみ、みうらじゅん氏を会長に据えるたあ……実によく分かってらっしゃる!

こいつぁ機を見るに敏、実に一流のマーケティングであり、いやもう今時の名刹はマジあなどれねえっすパねえっす!







ところで。

こんな辺鄙なブログをわざわざ覗いているほどの方であれば、稲垣足穂という人物名および、その著作に『少年愛の美学』なるものがあるっつーことは当然ご存知でありましょう。

古今東西、人類史上に現われたるショタコンの事例を大量に集め、「少年の美」の何たるかを論じた労作であります。


その『少年愛の美学』においては、日本の仏教美術もまた、「そういうもの」に属するものだと説かれています。



例えば、


「百済観音や弥勒菩薩の謎的微笑は、もともと『未生』の形態化であって、古代ギリシャの女身男根像と同じく、『性欲異常』乃至『セックスの抽象化』がもたらすところの魅力である」


とか、


「清閑寺の襖絵の十二天や二十八部衆が坊様たちのオナニー的対象であったことを、南方熊楠翁が指摘していた」


とか。



するってぇと、「天平の美少年」たる件の阿修羅像も当然放っておかれるはずがない!

それは名指しで、



「著しく少年趣味の作」



だと評されています。

つまり、ショタコンどもをハアハアさせる目的のために作られたのだと言うのです。



なるほど、「中世の僧侶業界では、寺稚児へのセクハラが大流行していた」という説はよく耳にするところですし、上記の足穂的見解も、それなりに説得力を持ってるように思えます。



しかし。

『少年愛の美学』は、もとより学術的かつ実証的な論文ではありません。

そこに蒐集された少年愛の事例は確かに豊富であるものの、それらに対する足穂翁の感想・感慨はやや主観的なものであり、当方としても「そこまで言い切っちゃっていいのかなあ……」と首をかしげることしばし。


また件の阿修羅像が製作されたのは天平6年(734)。

つまり、未だ奈良時代においてのこと。


さらに江戸時代にゃ「本朝の男色趣味の第一号は弘法大師!」だという俗説が広まっていましたが、それが事実だと言いがたいことは以前にも述べた通り

弘法さんが生きた8世紀後半~9世紀前半の時点に至ってもなお、「僧侶×稚児」が流行していた!という事例を伝える史書や文学作品は、見当たらないのです。

そういうことがあったという憶測はできても、その証明が難しい!





以上より、足穂翁の説く『美学』と、阿修羅像の作者がノミに込めたコンセプトとが同一のものであるとは、なかなか断言しづらいものかと。



それでも平安時代中期を過ぎたあたりになると、寺院内における「稚児愛」がぼちぼち記録上に目立ち始めます。

また美少年への恋心を詠んだ和歌by僧籍にある者が、『拾遺和歌集』などの勅撰集にまで登場するようになることを考えると、その頃のショタコン坊主が過去の仏像や仏画を見て、「はあ……俺もこういう可愛い子を抱いてみてぇなぁ」と情欲をたぎらせることは、結構ありがちなことだったんじゃないかと。

そして、かつての名作群を手本に「よぉし自分もショタコン受けする作品を作ろう!」と意気込む職人・作家もいたんじゃないですかねえ。


それこそ、もともと「そういうつもり」で描かれたわけじゃないはずの『キャプテン翼』や『聖闘士星矢』が「やおい同人」界隈の黄金期を築き、さらには以降コミケにおける「飛翔系」ジャンル隆盛の土台となったように。



……っと、これもまた素人オタの思いつきアンド憶測に過ぎませんがね。






とまれ。

人の価値観とは移ろいやすいものでありながら、興福寺の阿修羅は完成より1300年後の世でも「美少年」とか「イケメン」とか評され、ショタコンのみならず多くの人に愛されています。

製作者本人の真意はどうあれ、その製作物には、普遍的な「美」の理念が確かに内包されていた。


仏ほっとけ神かまうな、を信条とする罰当たりの当方としても、古き良き日本美術のハイレベル具合には、素直に感動せずにはいられませんです。


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by hihonsyudo | 2010-06-19 22:26 | 歴史・古典よもやま話 | Trackback | Comments(0)
新しい、っつーか珍しい芭蕉解釈

『日本における男色の研究』(平塚良宣・著 人間の科学社,1994)という本を読んでいたら、以下のようなことが書いてあって、度肝を抜かれました。




花の雲、鐘は上野か、浅草か


この句は、江戸の殷賑の街である上野と浅草で吉原は女色、湯島は男色ということである。




なんと!

まさに、「その発想はなかった」!


この「花の雲~」というのは松尾芭蕉の作なんですが……

いやあ、多くの場合んは「お江戸のマッタリ感を表現した秀句」だと評される作品に、あえて「色街」の匂いを嗅ぎ取るたぁ、なかなかに面白い!


が。

平塚氏の場合、力強い断言とは裏腹に、そう信じられる根拠については全く挙げてないので、この説は「思いつき」以上のものではないでしょうね。

「面白い」解釈だけど、「正しい」見方だと諸手を挙げて賛成するわけにはいかない。




でも、こういう奔放なことを思いついてしまう想像力っつーか妄想力には、ちょっと感動しましたです。


そこで不肖当方、勝手に平塚説を補強するために、江戸時代の川柳として下記の如きが残っていることを指摘しておきます。




土手を行く 医者は上野か 浅草か



身分を隠すため医者に変装し、色街へ繰り出すエロ僧侶が多かったことを皮肉る一句。

言うまでもなく、これは芭蕉作のパロディでしょう。

そして……こういう「もじり」が成立する以上、「上野」および「浅草」なる地名は、江戸市民にとって聞けばたやすく「売春地帯」を想起できるものだったんじゃないかと。


そうなれば……元祖芭蕉だって「花の雲~」と詠んだ際、その脳裏によぎったのは上野寛永寺や浅草寺の鐘堂のみではなかったのではないか!

同時に美しく着飾った傾城や少年たちが手招きする様を思い浮かべ、ついつい頬の筋肉を緩めたりとか、そういうことがなかったとは……


言い切れまいぞ、うん!







なぁんて、いやまあ。

結局のところは、いつかあの世に逝った際に芭蕉本人へインタビューしてみないことにゃ分からないんですけどね。


なれど梅雨時の寝苦しい夜、たまにゃ無責任な推理で脳細胞のカビ払いをしてみるのも楽しいものです。








もののついで。

今度のショタスクラッチについて。


皆様おなじみ「ぶどううり・くすこ」大人からの委託本あり。

すなわち、現代ショタ史の最高参考書たる『ショタコンのゆりかご』・増補最新版!


詳細については、後にくすこ大人のブログで告知されるでしょうが、とりあえず当方でも先行告知まで。



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by hihonsyudo | 2010-06-13 20:53 | 歴史・古典よもやま話 | Trackback | Comments(0)