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秘本衆道会
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合体……それは男のロマン

 本朝の男色史を学ぶ上で、決して避けては通れぬビッグネームに藤原頼長(1120-1156)という平安貴族がいます。
 当方これまで何度か同人誌イベントにサークル参加してきましたが、そういう場で斯道に興味をお持ちの方と会話する際にも、彼についての話題は高確率で飛び出します。



 以下、ウィキペディアの『藤原頼長』項 より引用。



その日記『台記』には、男色の記録が数多いことで知られるが、男色は当時の社会では普通のことであった。東野治之、五味文彦の研究でその詳細は明らかにされ、男色相手として、随身の秦公春、秦兼任のほか、公卿藤原忠雅、藤原為通、藤原隆季、藤原公能、藤原家明、藤原成親、また源成雅の名が明らかにされているが、五味はうち四人までが、当時院の近臣として権勢を誇った藤原家成の親族であることから、頼長が男色関係を通じて家成一族をとりこもうとしたと推測している。



 平安末期の宮中じゃリアル「男×男」のカップリングが盛んであったわけですが、頼長先生は身をもって、その事実をしっかり後世に伝えてくれているのです。
 ありがたやー。


 ちなみに『台記』中では、現代人が読めば「何この爛れたポルノ!」と慨嘆したくなるような文章がところどころに出てきますゆえ、もし多少なりとも時間が有れば是非グーグルで検索してみてくださいまし。
 ネット上でも、その原文を引用しつつ『台記』の素晴らしさに胸を熱くしたり呆れたりしている方がたくさんいらっしゃいますので。


 さてさて。


 そんな歴史的ゲイである頼長先生ですが、宮中の醜い権力争いの末に「保元の乱」という戦争を引き起こし、あげく齢37の男盛りにしてコロッと戦死してしまいます。
 もしこの戦いを生き延びていたなら、その後もずっと面白エロ日記を書き続けていたのだろうなあ……と思うと、実に惜しい!



 しかし。

 その代わりと言っては何ですが……頼長の政治的ライバルにして「保元の乱」の勝者である後白河天皇(1127-1192)もまた、結構な「男好き」でした。



 現代の歴史学者である五味文彦氏は、後白河院の男色記録があまりにも多く見つかる事から、


「もしかしたら、少年時代の源頼朝ですらヤツに掘られてるんじゃね?」


 という疑いを抱いていらっしゃいます(五味氏の著『院政期社会の研究』による)。



 後白河自筆の日記・記録の類は見つかっていないのですが、彼の性癖に関しては、同時代人による多くの証言が残っています。


 例えば当時の天台座主たる慈円(頼長の甥にあたる人物)が書いた史書・『愚管抄』によれば、藤原信頼や藤原成親など多くの臣下が「寵愛」を受けていたようです。


 ……で、後白河のそういう「えこひいき」が臣下たちの間に亀裂を生じさせ、ついには「平治の乱」という内紛がまたしても持ち上がったり。


 それでも、彼の辞書に「自重」という文字はありません。

 とにかくまあ若い頃から老後に至るまで、彼はまんべんなく節操なく男を食いまくっていたのでした(と言っても完全な同性愛者ではなく、男色と同じぐらい女色も好んでいたようですが)。




 つーわけで後白河先生の生涯イコール下半身の歴史と言っても過言ではないぐらいなわけですが、その辺りの事情がよく分かる資料としては、個人的に『玉葉』が極め付きだと思います。
 それは九条兼実(1149-1207)という公卿によって書かれた、37年分にも及ぶ膨大な日記であり、平安から鎌倉へと時代が移行する激動期のつぶさな記録として、大変に珍重なものです。


 以下、寿永2年(1183)8月2日付の記事より抜粋。



 伝聞、摂政に二ヶ条の由緒有り。
 動揺すべからずと云々。
 一つは(中略)
 一つは法皇、摂政を艶し、其の愛念に依り、抽賞すべしと云々。
 秘事・奇異の珍事と為すといへども、
 子孫に知らしめんがために記し置く所なり。



 激ヤバな噂を聞いちまった。
 なんでも後白河院(法皇)が、摂政である近衛基通に萌えまくっているらしい。
 いかにも低俗ゴシップ週刊誌が飛びつきそうな話であるが、宮中の出来事をキッチリ子孫に伝えることが自分の義務なので、あえてこれを記す……


 ってな感じでしょうか。




 さらに、同月18日になると……一段とすンごいスクープが明らかに!




 又聞く。
 摂政、法皇に鐘愛せらるる事、昨今の事に非ず。
 御逃去以前、先づ五六日密参し、女房冷泉局を以て媒と為すと云々。
 去んぬる七月の御八講の比より御艶気有り。
 七月廿日比、御本意を遂げらる。
 去んぬる十四日、参入の次いで、又、艶言の御戯れ等有りと云々。
 事体、御志浅からずと云々。
 君臣合体の儀、之を以て至極と為すべきか。
 古来、かくの如きの蹤跡無し。
 末代の事、皆以て珍事也。
 勝事也。
 密告の思ひに報はる。
 其の実、只愛念より起こると云々。









 うおおおおおおおおお!



「御艶気」


「御戯れ」



 の果てに、





「君臣合体の儀」


「之を以て至極」





 と、来たもんだ!

 参った!


 嗚呼、なんという声に出して読みたい日本語!
 単なる忠義の関係に収まらぬ「君主×従者」カップリング、ここに極まれり!

 いやもう当方、男色古典を調べるようになってから久しいですが、男同士の情交をここまでストレートかつ無駄にドラマチックなレトリックをもって表現した例はなかなか無いですぜ?
 一億と二千年前から主従萌え~♪



 しかし……九条兼実という人は、後白河院によって放逐された崇徳院のシンパで、さらに摂政の基通ともあまり仲が良くなかったと言われています。


 ゆえに、
「君臣合体」云々というのも本心ではなく、


「やれやれ大変に仲がよろしくて実に結構でございますねえウヒヒヒ」


 みたいな皮肉である可能性が高いんですけどね。


 まあ著者の真意はともかく、男×男の濃厚な関係を、異様なまでにネットリした筆致で記録しているという点で、『玉葉』の価値は千金!


 『台記』にしろ『玉葉』にしろ、こういう類のホモホモした文章が、地位も教養もある貴族階級によって書かれ、しかも堂々と国史に残りまくっている。
 やっぱり日本という国はパねぇぜ!と号泣せずにはいられんです、はい。



 兼実いわく、後白河の乱行・乱交ぶりは


「古来、かくの如きの蹤跡無し」
 
 だそうですが、いやいやなんの!
 当方に言わせりゃ、『玉葉』こそ古今東西に類なき人類の至宝なんですともさ!




 なお後白河という人物の評価については、「単なる色キチの暗君」説と「公家と武家の間を上手く立ち回って生き延びた賢君」説の両方がありますが……


 かくも興味深いエピソードをたくさん残してくれた以上、当方と致しましてはこれまた当皇室史上に燦然と輝くスーパースター認定!せざるをえないですいやマジで。





(追補)

 『玉葉』中に上述のごとき愉快な記述があることは、「古典的奈良漬」 の奈良漬氏よりご教示いただきました。
 氏の御厚情に心よりの感謝を、また御学識に深い敬意を捧げるものです。













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by hihonsyudo | 2010-07-22 23:03 | 歴史・古典よもやま話 | Trackback | Comments(0)
世界に羽ばたけ! 男色将軍

17世紀のオランダ人、アルノルドゥス・モンタヌスが書いた『東インド会社遣日使節紀行』という本があります。

通称として『日本誌』とも呼ばれるそれは、タイトルの通り安土桃山~江戸初期における日本の文化・風俗について解説する内容。


1669年にオランダ国内で初版が出るや否や、大反響!

その後すぐに英語・フランス語など諸外国語にも訳され、ヨーロッパ全土で広く読まれたそうで、当時の西洋人が極東に浮かぶエキゾチック島国へ向けた興味は、並々ならぬものがあった模様。



ただし……

モンタヌス自身は実際に日本に行ったことがなく、オランダ東インド会社からのレポートや、スペイン・ポルトガルの宣教師たちによる見聞録ばかりを参考に筆を走らせたため、『日本誌』の内容には色々とおかしい点が目立ちます。



その一例。

モンタヌス先生によれば、日本人は男女ともに「セマル」と呼ばれる衣装を着ているそうです。

その特徴としては



「裾が膝より下」


「袖が広い」


「胴の周りには、巧みな刺繍を施した帯を巻く」



ということで、これはいわゆるひとつの「キモノ」のことだと思うのですが、それが一体どこで「セマル」などという謎の単語におき代わってしまったのか、全く持って謎すぎ!

また、


「婦人は外出の時、長い柄の扇を持つ」


なんてことも書いてあります。

で、その説明文に添えられた挿絵が……



a0267818_1223938.jpg


いやあ……何この……何?






さらに、「相撲」の絵も凄いことになっていて




a0267818_1223102.jpg



こんな感じ。





ううむ……なんと申しますか……






ヂパングなめんな!







と叫ばざるをえない!


やっぱ聞きかじりの知識だけでモノゴトを語るのは超危険なことであり、百聞は絶対に一見に勝てないんだなあ……と、しみじみ思います。





そんなわけで。

著者はきっと大真面目なんでしょうけど、当の日本人自体から見りゃケンカ売ってるようにしか見えない、いささか残念な書。

それが『日本誌』なんであります。




ただし、全部が全部どうしようもなく間違っとる!ってわけでもありません。


大正時代に『日本誌』を和訳した和田萬吉博士は、その内容を一応



『誇大に失するの弊』



あるものだと認めた上でなお、徳川幕府によるキリシタン弾圧の実態を



『頗る詳悉に』



調べ上げていること、および



『信長、秀吉、家康等の間に覇権の移動せし状、秀吉、秀次の確執の様等を説きて我が国に普行せる史籍以上に明快なる判断を下せる』



ことについて賛辞を送っています。



そして不肖当方もまた、和田博士に遅れる事100年ながら、この『日本誌』に盛大なるブラヴォーを捧げたいと思います。


その理由は……日本の「皇帝」である『トーショーグンサマ』なる人物は、「男色癖の持ち主」である!と、はっきり名言しているからです。


なんでも、彼は全く女性に興味を持つことができず、したがって世継ぎを作ることもできず、そのことを乳母に説教されると怒り狂ったとか。



「トーショーグンサマ」すなわち「当将軍様」、つまり「その時点での幕府のトップ」を意味する代名詞なんでしょうが、モンタヌスはそれを人名ないし固有名詞だと早とちりしてしまったようです。



ついでに言えば、日本じゃ「皇帝」と「将軍」は別物のはずなんですけど……



さておき。

「トーショーグンサマ」の系譜および彼が登場する時代を考え、さらに「男色癖」という有力すぎる情報を加味してみれば、その正体は三代将軍・家光で、まず間違いありません。


また、彼の性癖に頭を悩ませた乳母というのは、恐らく春日局のことでしょう。



……モンタヌス先生、グッジョブ!

大量のレポートの束の中から、よくぞ!日本文化の特にユニークな点を拾い上げてくださった!


何せ、幕府公式の家光伝記である『大猷院殿御実紀』(いわゆる『徳川実紀』の一部)でさえも、彼に「そういう趣味」があったことをキッチリばっちり記録していますからな!



つまり、先述の「セマル」云々などと違い、こっちはれっきとした事実!



『実紀』によれば、堀田正盛や酒井重澄といった側近たちは、小姓時代から将軍様直々の『寵遇』を受けていたそうで。


また、「風呂の中で他の小姓に抱きついた」というカドで手討ちにされた「坂部五左衛門」なる人物に至っては、もともと



『家光公へ恋慕し奉り、衆道の御知音也』



と、思いっきり断言されちゃってます!



ちなみに坂部を切った時、家光はまだ16歳。

色恋の嫉妬からカッとなり、『衆道の御知音』をブチ殺すたぁ……

「キレやすい若者」なんてぇのは古今通じて浜の真砂なんですなあ閑話休題。





とにかく、『日本誌』と『大猷院殿御実紀』の記述とを重ね合わせると、




・当時の日本の政治的トップは、同性愛者だった!


・しかも、その事実は江戸城内のみの秘密などでは決してなく、民間でも広く知られていた!




っつー素晴らしい過去が、まざまざと蘇ってまいります。

もし幕府のお偉方が、当将軍様の「趣味」をマジで秘するべき恥だと考えていたなら、そもそも史書の上に書き残したりはしなかったでしょう。

また、一時的滞在の外国人ですら風聞するほどに噂が広まることも、決して許しはしなかったでしょう。


これってつまり、当時のハイソ武家社会にゃ、「衆道」という理念が確かに息づいていたことの証左だと言えるのではないでしょうか。



いやもう調べれば調べるほどに、江戸時代とは色々とすげぇ時代だったのだなぁ……と思いますです。


腐人種のはしくれである自分ですら、これだけ驚けるんだ。

まして、当時の西洋人たちが「不思議の国ニッポン」から受けた衝撃は、計り知れないものだったに違いありません(ガセ情報も多かったけど)。



自分の生きる「今」と「ここ」から、しばし魂を遊離させ、時空を越えた旅に赴く。

当方がこうして味わっている読書の楽しみ=知らない世界を知る喜びは、モンタヌスの著を競って買った17世紀ヨーロッパ諸国民のそれと、ほぼ同一のものであったことでしょうよ。





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by hihonsyudo | 2010-07-13 22:53 | 歴史・古典よもやま話 | Trackback | Comments(0)