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秘本衆道会
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「腐女子のため」……に、なるかなあ?

先日、コミティア(弊サークルを訪れて下さった皆様マジありがとう!)参加のために上京しました。

ついでに秋葉原に寄ったところ、


『腐女子のための基礎知識 日本の歴史編』


という本を見つけたので、「ほほう!」と思ってサクッと買ってみました。


この手の「オタク向け歴史参考書」では、以前に『BL新日本史』という残念すぎるシロモノを掴まされて憤慨し、つい批判本を1冊書き上げてしまったことがありますが!


さて今回や如何に?








つーわけで、パラパラとページをめくってみた感想。


載っているのは「男×男」関係の話題だけではなく、昔の人のライフスタイルや服装などについては、それなりに力を入れて調べている印象。


うん、『BL日本史』のように「著者個人の勝手な妄想」「歴史の真実」だと言い張るような愚は、流石に犯してないですな……


しかし。

少なくとも68~71ページの「陰間」に関する説明には、調査不足による間違いが色々と目立ちますです。


ゆえに結論としては、やっぱり残念!でありました。


それじゃ以下、チョイチョイとツッコミを。



『男色が爛熟期を迎えるのは江戸時代、享保年代の頃です。この時代には陰間と呼ばれる男娼も現れます』

(69ページ)


この場合の「爛熟」とは、一体どういう状況を指す語として使われているのか知りませんが……

享保期(1716~1735)を待つまでもなく、「少年売春や美少年絵は17世紀中より流行しまくってました。


「陰間と呼ばれる男娼」の存在も、またしかり。

例えば西鶴の『男色大鑑』(貞享4年=1687刊)や『万の文反故』(元禄9年=1696刊)などを読めば、『陰間』『陰子』という名称が当時から使われていたことが分かります。





次。


『江戸時代には男性相手に売春する「陰間(陰郎)」と呼ばれる男娼がいました。(中略)陰間茶屋や歌舞伎の一座に所属しない流しの陰間である飛子(とびこ)がいました』

(69ページ)


「飛子」とは、確かに「流しの陰間」ではありますが、必ずしも「陰間茶屋や歌舞伎の一座に所属しない」かと言えば、そんなことはありません。


貞享3年(1686)に出版された『好色訓蒙図彙』というエロ百科事典には、


『役者ともならず。色をうる一しゆなるを。陰郎陰間なんどいへり。又は旅芝居、市町、諸寺の開帳にて、くんじゆの場、米取でらの有あたりえ出張してゐるを、飛子といふ也』


とあり、確かにこれだけ読むとフリーの売春少年をこそ『飛子』と呼ぶようにも思えますが、これがまた別の事典・つまり元禄3年(1690)の『人倫訓蒙図彙』になりますと……


『狂言役者男子を、遊女屋の女のかかゆる如くにかかへ置きて、芸をし入れるなり。(中略)いまだ舞台へ出でぬは、かげまといふ。他国をめぐるを飛び子といふなり』


って、書いてある。

つまり所属先があっても、様々な場所へ出張する子であれば立派に「飛び子」と呼ばれていたのです。





『振袖

武将の小姓とは違い、陰間は女装していた』

(68ページ)


『陰間の特徴は、小姓とは違い「女装」していることです。女性と見まごうほど美しく、そんな中に男性の美しさが閃く、というのが人気の理由だったようで、振袖を着たり、舞台子なら舞台衣装のまま客を取ることもありました』

(69ページ)


この著者さん、「振袖」は昔から「女」だけが着るものだと決めつけているようですが……いやいや!

当時のそれは、若い子であれば男女両方が普通に着ていました

ゆえに江戸の価値観に照らせば、「振袖を着る」イコール「女装」とはみなせないのです。


(しかし当方自身も、以前に似たようなミス をやらかしたことあり……この件については、あんまりドヤ顔で責められませぬ……)





『元禄時代にの浮世草紙作家である井原西鶴は「男色十寸鏡」という男色指南書や「男色大鏡」という好色物を書いてます』

(70~71ページ)


今回、最も首をかしげた箇所です。


「男色大鏡」は、確かに西鶴の作品です。

しかし「十寸鏡」の作者署名は「三夕軒好若処士」となってますが、この正体が西鶴だという証拠は寡聞にして知りませぬ。

ほんと、どこから出てきた説なんだろ?


あ、一応、その「三夕軒」「吉田半兵衛」という絵師の別名だとする説なら、昔からあります。

そして半兵衛とは、「男色大鏡」の挿絵を描いたと目されるひとりでもあるのですが……

もし本当にそうだったとしても、やっぱり「西鶴本人」ではないわけで。



それと70ページでは、「陰間茶屋」「子ども屋」を異名同類のものとして扱ってもいるのですが、これもちょっと疑わしい……

平賀源内の『男色細見 三の朝』には、当時の江戸にあった少年売春街の地図が描かれています。

で、その中には屋号の上に図形記号が振ってあるものもあるのですが、凡例にいわく「○印は子供屋也、△印は茶屋也」

つまり源内先生は、これらふたつを「名前も種類も別の施設」とみなしていたっぽい!


……しかし、言葉の意味ってのは刻一刻と変化するもの。

源内の時代にゃ別義だったのが、後々に同一視されるようになった……っつー可能性も一応ありますな。

この問題については、後々もうちょっと詳しく調べてみますです。



by hihonsyudo | 2012-02-09 21:12 | 歴史・古典よもやま話
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