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秘本衆道会
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合体……それは男のロマン

 本朝の男色史を学ぶ上で、決して避けては通れぬビッグネームに藤原頼長(1120-1156)という平安貴族がいます。
 当方これまで何度か同人誌イベントにサークル参加してきましたが、そういう場で斯道に興味をお持ちの方と会話する際にも、彼についての話題は高確率で飛び出します。



 以下、ウィキペディアの『藤原頼長』項 より引用。



その日記『台記』には、男色の記録が数多いことで知られるが、男色は当時の社会では普通のことであった。東野治之、五味文彦の研究でその詳細は明らかにされ、男色相手として、随身の秦公春、秦兼任のほか、公卿藤原忠雅、藤原為通、藤原隆季、藤原公能、藤原家明、藤原成親、また源成雅の名が明らかにされているが、五味はうち四人までが、当時院の近臣として権勢を誇った藤原家成の親族であることから、頼長が男色関係を通じて家成一族をとりこもうとしたと推測している。



 平安末期の宮中じゃリアル「男×男」のカップリングが盛んであったわけですが、頼長先生は身をもって、その事実をしっかり後世に伝えてくれているのです。
 ありがたやー。


 ちなみに『台記』中では、現代人が読めば「何この爛れたポルノ!」と慨嘆したくなるような文章がところどころに出てきますゆえ、もし多少なりとも時間が有れば是非グーグルで検索してみてくださいまし。
 ネット上でも、その原文を引用しつつ『台記』の素晴らしさに胸を熱くしたり呆れたりしている方がたくさんいらっしゃいますので。


 さてさて。


 そんな歴史的ゲイである頼長先生ですが、宮中の醜い権力争いの末に「保元の乱」という戦争を引き起こし、あげく齢37の男盛りにしてコロッと戦死してしまいます。
 もしこの戦いを生き延びていたなら、その後もずっと面白エロ日記を書き続けていたのだろうなあ……と思うと、実に惜しい!



 しかし。

 その代わりと言っては何ですが……頼長の政治的ライバルにして「保元の乱」の勝者である後白河天皇(1127-1192)もまた、結構な「男好き」でした。



 現代の歴史学者である五味文彦氏は、後白河院の男色記録があまりにも多く見つかる事から、


「もしかしたら、少年時代の源頼朝ですらヤツに掘られてるんじゃね?」


 という疑いを抱いていらっしゃいます(五味氏の著『院政期社会の研究』による)。



 後白河自筆の日記・記録の類は見つかっていないのですが、彼の性癖に関しては、同時代人による多くの証言が残っています。


 例えば当時の天台座主たる慈円(頼長の甥にあたる人物)が書いた史書・『愚管抄』によれば、藤原信頼や藤原成親など多くの臣下が「寵愛」を受けていたようです。


 ……で、後白河のそういう「えこひいき」が臣下たちの間に亀裂を生じさせ、ついには「平治の乱」という内紛がまたしても持ち上がったり。


 それでも、彼の辞書に「自重」という文字はありません。

 とにかくまあ若い頃から老後に至るまで、彼はまんべんなく節操なく男を食いまくっていたのでした(と言っても完全な同性愛者ではなく、男色と同じぐらい女色も好んでいたようですが)。




 つーわけで後白河先生の生涯イコール下半身の歴史と言っても過言ではないぐらいなわけですが、その辺りの事情がよく分かる資料としては、個人的に『玉葉』が極め付きだと思います。
 それは九条兼実(1149-1207)という公卿によって書かれた、37年分にも及ぶ膨大な日記であり、平安から鎌倉へと時代が移行する激動期のつぶさな記録として、大変に珍重なものです。


 以下、寿永2年(1183)8月2日付の記事より抜粋。



 伝聞、摂政に二ヶ条の由緒有り。
 動揺すべからずと云々。
 一つは(中略)
 一つは法皇、摂政を艶し、其の愛念に依り、抽賞すべしと云々。
 秘事・奇異の珍事と為すといへども、
 子孫に知らしめんがために記し置く所なり。



 激ヤバな噂を聞いちまった。
 なんでも後白河院(法皇)が、摂政である近衛基通に萌えまくっているらしい。
 いかにも低俗ゴシップ週刊誌が飛びつきそうな話であるが、宮中の出来事をキッチリ子孫に伝えることが自分の義務なので、あえてこれを記す……


 ってな感じでしょうか。




 さらに、同月18日になると……一段とすンごいスクープが明らかに!




 又聞く。
 摂政、法皇に鐘愛せらるる事、昨今の事に非ず。
 御逃去以前、先づ五六日密参し、女房冷泉局を以て媒と為すと云々。
 去んぬる七月の御八講の比より御艶気有り。
 七月廿日比、御本意を遂げらる。
 去んぬる十四日、参入の次いで、又、艶言の御戯れ等有りと云々。
 事体、御志浅からずと云々。
 君臣合体の儀、之を以て至極と為すべきか。
 古来、かくの如きの蹤跡無し。
 末代の事、皆以て珍事也。
 勝事也。
 密告の思ひに報はる。
 其の実、只愛念より起こると云々。









 うおおおおおおおおお!



「御艶気」


「御戯れ」



 の果てに、





「君臣合体の儀」


「之を以て至極」





 と、来たもんだ!

 参った!


 嗚呼、なんという声に出して読みたい日本語!
 単なる忠義の関係に収まらぬ「君主×従者」カップリング、ここに極まれり!

 いやもう当方、男色古典を調べるようになってから久しいですが、男同士の情交をここまでストレートかつ無駄にドラマチックなレトリックをもって表現した例はなかなか無いですぜ?
 一億と二千年前から主従萌え~♪



 しかし……九条兼実という人は、後白河院によって放逐された崇徳院のシンパで、さらに摂政の基通ともあまり仲が良くなかったと言われています。


 ゆえに、
「君臣合体」云々というのも本心ではなく、


「やれやれ大変に仲がよろしくて実に結構でございますねえウヒヒヒ」


 みたいな皮肉である可能性が高いんですけどね。


 まあ著者の真意はともかく、男×男の濃厚な関係を、異様なまでにネットリした筆致で記録しているという点で、『玉葉』の価値は千金!


 『台記』にしろ『玉葉』にしろ、こういう類のホモホモした文章が、地位も教養もある貴族階級によって書かれ、しかも堂々と国史に残りまくっている。
 やっぱり日本という国はパねぇぜ!と号泣せずにはいられんです、はい。



 兼実いわく、後白河の乱行・乱交ぶりは


「古来、かくの如きの蹤跡無し」
 
 だそうですが、いやいやなんの!
 当方に言わせりゃ、『玉葉』こそ古今東西に類なき人類の至宝なんですともさ!




 なお後白河という人物の評価については、「単なる色キチの暗君」説と「公家と武家の間を上手く立ち回って生き延びた賢君」説の両方がありますが……


 かくも興味深いエピソードをたくさん残してくれた以上、当方と致しましてはこれまた当皇室史上に燦然と輝くスーパースター認定!せざるをえないですいやマジで。





(追補)

 『玉葉』中に上述のごとき愉快な記述があることは、「古典的奈良漬」 の奈良漬氏よりご教示いただきました。
 氏の御厚情に心よりの感謝を、また御学識に深い敬意を捧げるものです。













# by hihonsyudo | 2010-07-22 23:03 | 歴史・古典よもやま話
世界に羽ばたけ! 男色将軍

17世紀のオランダ人、アルノルドゥス・モンタヌスが書いた『東インド会社遣日使節紀行』という本があります。

通称として『日本誌』とも呼ばれるそれは、タイトルの通り安土桃山~江戸初期における日本の文化・風俗について解説する内容。


1669年にオランダ国内で初版が出るや否や、大反響!

その後すぐに英語・フランス語など諸外国語にも訳され、ヨーロッパ全土で広く読まれたそうで、当時の西洋人が極東に浮かぶエキゾチック島国へ向けた興味は、並々ならぬものがあった模様。



ただし……

モンタヌス自身は実際に日本に行ったことがなく、オランダ東インド会社からのレポートや、スペイン・ポルトガルの宣教師たちによる見聞録ばかりを参考に筆を走らせたため、『日本誌』の内容には色々とおかしい点が目立ちます。



その一例。

モンタヌス先生によれば、日本人は男女ともに「セマル」と呼ばれる衣装を着ているそうです。

その特徴としては



「裾が膝より下」


「袖が広い」


「胴の周りには、巧みな刺繍を施した帯を巻く」



ということで、これはいわゆるひとつの「キモノ」のことだと思うのですが、それが一体どこで「セマル」などという謎の単語におき代わってしまったのか、全く持って謎すぎ!

また、


「婦人は外出の時、長い柄の扇を持つ」


なんてことも書いてあります。

で、その説明文に添えられた挿絵が……



世界に羽ばたけ! 男色将軍_a0267818_1223938.jpg


いやあ……何この……何?






さらに、「相撲」の絵も凄いことになっていて




世界に羽ばたけ! 男色将軍_a0267818_1223102.jpg



こんな感じ。





ううむ……なんと申しますか……






ヂパングなめんな!







と叫ばざるをえない!


やっぱ聞きかじりの知識だけでモノゴトを語るのは超危険なことであり、百聞は絶対に一見に勝てないんだなあ……と、しみじみ思います。





そんなわけで。

著者はきっと大真面目なんでしょうけど、当の日本人自体から見りゃケンカ売ってるようにしか見えない、いささか残念な書。

それが『日本誌』なんであります。




ただし、全部が全部どうしようもなく間違っとる!ってわけでもありません。


大正時代に『日本誌』を和訳した和田萬吉博士は、その内容を一応



『誇大に失するの弊』



あるものだと認めた上でなお、徳川幕府によるキリシタン弾圧の実態を



『頗る詳悉に』



調べ上げていること、および



『信長、秀吉、家康等の間に覇権の移動せし状、秀吉、秀次の確執の様等を説きて我が国に普行せる史籍以上に明快なる判断を下せる』



ことについて賛辞を送っています。



そして不肖当方もまた、和田博士に遅れる事100年ながら、この『日本誌』に盛大なるブラヴォーを捧げたいと思います。


その理由は……日本の「皇帝」である『トーショーグンサマ』なる人物は、「男色癖の持ち主」である!と、はっきり名言しているからです。


なんでも、彼は全く女性に興味を持つことができず、したがって世継ぎを作ることもできず、そのことを乳母に説教されると怒り狂ったとか。



「トーショーグンサマ」すなわち「当将軍様」、つまり「その時点での幕府のトップ」を意味する代名詞なんでしょうが、モンタヌスはそれを人名ないし固有名詞だと早とちりしてしまったようです。



ついでに言えば、日本じゃ「皇帝」と「将軍」は別物のはずなんですけど……



さておき。

「トーショーグンサマ」の系譜および彼が登場する時代を考え、さらに「男色癖」という有力すぎる情報を加味してみれば、その正体は三代将軍・家光で、まず間違いありません。


また、彼の性癖に頭を悩ませた乳母というのは、恐らく春日局のことでしょう。



……モンタヌス先生、グッジョブ!

大量のレポートの束の中から、よくぞ!日本文化の特にユニークな点を拾い上げてくださった!


何せ、幕府公式の家光伝記である『大猷院殿御実紀』(いわゆる『徳川実紀』の一部)でさえも、彼に「そういう趣味」があったことをキッチリばっちり記録していますからな!



つまり、先述の「セマル」云々などと違い、こっちはれっきとした事実!



『実紀』によれば、堀田正盛や酒井重澄といった側近たちは、小姓時代から将軍様直々の『寵遇』を受けていたそうで。


また、「風呂の中で他の小姓に抱きついた」というカドで手討ちにされた「坂部五左衛門」なる人物に至っては、もともと



『家光公へ恋慕し奉り、衆道の御知音也』



と、思いっきり断言されちゃってます!



ちなみに坂部を切った時、家光はまだ16歳。

色恋の嫉妬からカッとなり、『衆道の御知音』をブチ殺すたぁ……

「キレやすい若者」なんてぇのは古今通じて浜の真砂なんですなあ閑話休題。





とにかく、『日本誌』と『大猷院殿御実紀』の記述とを重ね合わせると、




・当時の日本の政治的トップは、同性愛者だった!


・しかも、その事実は江戸城内のみの秘密などでは決してなく、民間でも広く知られていた!




っつー素晴らしい過去が、まざまざと蘇ってまいります。

もし幕府のお偉方が、当将軍様の「趣味」をマジで秘するべき恥だと考えていたなら、そもそも史書の上に書き残したりはしなかったでしょう。

また、一時的滞在の外国人ですら風聞するほどに噂が広まることも、決して許しはしなかったでしょう。


これってつまり、当時のハイソ武家社会にゃ、「衆道」という理念が確かに息づいていたことの証左だと言えるのではないでしょうか。



いやもう調べれば調べるほどに、江戸時代とは色々とすげぇ時代だったのだなぁ……と思いますです。


腐人種のはしくれである自分ですら、これだけ驚けるんだ。

まして、当時の西洋人たちが「不思議の国ニッポン」から受けた衝撃は、計り知れないものだったに違いありません(ガセ情報も多かったけど)。



自分の生きる「今」と「ここ」から、しばし魂を遊離させ、時空を越えた旅に赴く。

当方がこうして味わっている読書の楽しみ=知らない世界を知る喜びは、モンタヌスの著を競って買った17世紀ヨーロッパ諸国民のそれと、ほぼ同一のものであったことでしょうよ。





# by hihonsyudo | 2010-07-13 22:53 | 歴史・古典よもやま話
「仏教美術=ショタコン美術」説

仄聞するところによりますと……

奈良興福寺が蔵する阿修羅像に恋する人が、最近やたら増えているようですね。

前年に国立博物館で開催された「国宝 阿修羅展」が、相当の動員数(80万人突破!)を記録したことは記憶に新しいですが、どうもその影響らしき。


なにせweb版『スポーツニッポン』にも、


イケメンに女子はうっとり “阿修羅グッズ”飛ぶように売れる


なんて記事が載るぐらい。

こりゃもう、日本を代表するマスコットといやあピカチュウかキティか阿修羅きゅんか!

というぐらいの勢いになりつつありますねウハハ。


また、その勢いに乗じて、本家興福寺の公式サイト中にも


阿修羅ファンクラブ


ができる始末。

『見仏記』でおなじみ、みうらじゅん氏を会長に据えるたあ……実によく分かってらっしゃる!

こいつぁ機を見るに敏、実に一流のマーケティングであり、いやもう今時の名刹はマジあなどれねえっすパねえっす!







ところで。

こんな辺鄙なブログをわざわざ覗いているほどの方であれば、稲垣足穂という人物名および、その著作に『少年愛の美学』なるものがあるっつーことは当然ご存知でありましょう。

古今東西、人類史上に現われたるショタコンの事例を大量に集め、「少年の美」の何たるかを論じた労作であります。


その『少年愛の美学』においては、日本の仏教美術もまた、「そういうもの」に属するものだと説かれています。



例えば、


「百済観音や弥勒菩薩の謎的微笑は、もともと『未生』の形態化であって、古代ギリシャの女身男根像と同じく、『性欲異常』乃至『セックスの抽象化』がもたらすところの魅力である」


とか、


「清閑寺の襖絵の十二天や二十八部衆が坊様たちのオナニー的対象であったことを、南方熊楠翁が指摘していた」


とか。



するってぇと、「天平の美少年」たる件の阿修羅像も当然放っておかれるはずがない!

それは名指しで、



「著しく少年趣味の作」



だと評されています。

つまり、ショタコンどもをハアハアさせる目的のために作られたのだと言うのです。



なるほど、「中世の僧侶業界では、寺稚児へのセクハラが大流行していた」という説はよく耳にするところですし、上記の足穂的見解も、それなりに説得力を持ってるように思えます。



しかし。

『少年愛の美学』は、もとより学術的かつ実証的な論文ではありません。

そこに蒐集された少年愛の事例は確かに豊富であるものの、それらに対する足穂翁の感想・感慨はやや主観的なものであり、当方としても「そこまで言い切っちゃっていいのかなあ……」と首をかしげることしばし。


また件の阿修羅像が製作されたのは天平6年(734)。

つまり、未だ奈良時代においてのこと。


さらに江戸時代にゃ「本朝の男色趣味の第一号は弘法大師!」だという俗説が広まっていましたが、それが事実だと言いがたいことは以前にも述べた通り

弘法さんが生きた8世紀後半~9世紀前半の時点に至ってもなお、「僧侶×稚児」が流行していた!という事例を伝える史書や文学作品は、見当たらないのです。

そういうことがあったという憶測はできても、その証明が難しい!





以上より、足穂翁の説く『美学』と、阿修羅像の作者がノミに込めたコンセプトとが同一のものであるとは、なかなか断言しづらいものかと。



それでも平安時代中期を過ぎたあたりになると、寺院内における「稚児愛」がぼちぼち記録上に目立ち始めます。

また美少年への恋心を詠んだ和歌by僧籍にある者が、『拾遺和歌集』などの勅撰集にまで登場するようになることを考えると、その頃のショタコン坊主が過去の仏像や仏画を見て、「はあ……俺もこういう可愛い子を抱いてみてぇなぁ」と情欲をたぎらせることは、結構ありがちなことだったんじゃないかと。

そして、かつての名作群を手本に「よぉし自分もショタコン受けする作品を作ろう!」と意気込む職人・作家もいたんじゃないですかねえ。


それこそ、もともと「そういうつもり」で描かれたわけじゃないはずの『キャプテン翼』や『聖闘士星矢』が「やおい同人」界隈の黄金期を築き、さらには以降コミケにおける「飛翔系」ジャンル隆盛の土台となったように。



……っと、これもまた素人オタの思いつきアンド憶測に過ぎませんがね。






とまれ。

人の価値観とは移ろいやすいものでありながら、興福寺の阿修羅は完成より1300年後の世でも「美少年」とか「イケメン」とか評され、ショタコンのみならず多くの人に愛されています。

製作者本人の真意はどうあれ、その製作物には、普遍的な「美」の理念が確かに内包されていた。


仏ほっとけ神かまうな、を信条とする罰当たりの当方としても、古き良き日本美術のハイレベル具合には、素直に感動せずにはいられませんです。


# by hihonsyudo | 2010-06-19 22:26 | 歴史・古典よもやま話
新しい、っつーか珍しい芭蕉解釈

『日本における男色の研究』(平塚良宣・著 人間の科学社,1994)という本を読んでいたら、以下のようなことが書いてあって、度肝を抜かれました。




花の雲、鐘は上野か、浅草か


この句は、江戸の殷賑の街である上野と浅草で吉原は女色、湯島は男色ということである。




なんと!

まさに、「その発想はなかった」!


この「花の雲~」というのは松尾芭蕉の作なんですが……

いやあ、多くの場合んは「お江戸のマッタリ感を表現した秀句」だと評される作品に、あえて「色街」の匂いを嗅ぎ取るたぁ、なかなかに面白い!


が。

平塚氏の場合、力強い断言とは裏腹に、そう信じられる根拠については全く挙げてないので、この説は「思いつき」以上のものではないでしょうね。

「面白い」解釈だけど、「正しい」見方だと諸手を挙げて賛成するわけにはいかない。




でも、こういう奔放なことを思いついてしまう想像力っつーか妄想力には、ちょっと感動しましたです。


そこで不肖当方、勝手に平塚説を補強するために、江戸時代の川柳として下記の如きが残っていることを指摘しておきます。




土手を行く 医者は上野か 浅草か



身分を隠すため医者に変装し、色街へ繰り出すエロ僧侶が多かったことを皮肉る一句。

言うまでもなく、これは芭蕉作のパロディでしょう。

そして……こういう「もじり」が成立する以上、「上野」および「浅草」なる地名は、江戸市民にとって聞けばたやすく「売春地帯」を想起できるものだったんじゃないかと。


そうなれば……元祖芭蕉だって「花の雲~」と詠んだ際、その脳裏によぎったのは上野寛永寺や浅草寺の鐘堂のみではなかったのではないか!

同時に美しく着飾った傾城や少年たちが手招きする様を思い浮かべ、ついつい頬の筋肉を緩めたりとか、そういうことがなかったとは……


言い切れまいぞ、うん!







なぁんて、いやまあ。

結局のところは、いつかあの世に逝った際に芭蕉本人へインタビューしてみないことにゃ分からないんですけどね。


なれど梅雨時の寝苦しい夜、たまにゃ無責任な推理で脳細胞のカビ払いをしてみるのも楽しいものです。








もののついで。

今度のショタスクラッチについて。


皆様おなじみ「ぶどううり・くすこ」大人からの委託本あり。

すなわち、現代ショタ史の最高参考書たる『ショタコンのゆりかご』・増補最新版!


詳細については、後にくすこ大人のブログで告知されるでしょうが、とりあえず当方でも先行告知まで。



# by hihonsyudo | 2010-06-13 20:53 | 歴史・古典よもやま話
コード・サガ ~反逆のハッピーエンド~

室町期に成立した「稚児物語」のタイトルとストーリーを、つらつら、いくつか、紹介していきます。





・『秋夜長物語』

 おそらく、室町ショタ本のうち最も有名な作品。
 僧侶と美少年の恋物語。
 ある美少年の身柄をめぐり、寺と寺、坊主と坊主が抗争する!
 ついでに天狗だの竜神だの、人外の輩も大暴れ!
 で、自分が騒乱の元凶となってしまったことを嘆いた美少年は、自害して果てる

 (ちなみに美少年の正体は観音の化身であり、僧たちの心を惑わしたことにも理由があったということが最後に明かされるのですが、あまりにも超展開すぎるのでここでは略)





・『松帆浦物語』

 僧侶と美少年の恋物語。
 しかし、そのラブラブっぷりに嫉妬した左大将(もちろん、こいつもショタコン)という権力者の姦策により、ふたりは遠く引き離されてしまう。
 美少年は知恵と勇気を振り絞って都を抜け出し、淡路へ流刑された僧侶のもとへ向かう。
 しかし辿り着いた頃には時すでに遅し。
 僧侶は、心労により病を得て、死んでしまっていた。





・『幻夢物語』

 僧侶と美少年(以下略)。
 主人公の僧は一目ぼれした美少年のもとを訪れ、楽しい一時を過ごす。
 しかし、その美少年はすでに死んでおり、彼の前に現れたのは幽霊であった。


(これまた、「もしかして美少年は文殊菩薩の化身だったんじゃないか?」というとってつけたような可能性が示唆されて終わる)





・『弁の草紙』

 僧(以下略)。
 想いを寄せていた美少年と契った嬉しさのあまり、僧侶は浮かれすぎて死ぬ
 美少年の方も、せっかく両思いになれた相手の急逝を知って欝状態になり、後を追うかのように病死する









ふう。




おいおい……

いくらなんでも、こいつぁ……




欝エンド多すぎ!






室町時代のショタものとしては、他にも『鳥部山物語』とか『あしびき』とか、あと能の脚本として書かれた『花丸』なんかがあるものの……


もうね、ほとんど全部の恋が、悲恋で終わるんですよ。


ついでに言えば、主人公は坊主オア公家の二択。
で、死に別れたカップルのうち、生き残ったほうは哀しみ背負って仏道修行に専心するようになるというのも……

鉄板的お約束!



どうにも当時のショタコン界にゃ、「絶対ハッピーエンドなんか認めねえぞオラ!」という意固地な空気があった模様。
その理由として、岩田準一をはじめとするショタ研究者たちの多くは、いわゆる「仏教的無常観」の影響を挙げています。
どんなに美しい花であっても、散る時は一瞬で儚く消えていくんだぜ?っていう。




漱石の『我輩は猫である』がベストセラーになれば、模造品が大量に出回る


いわゆる「葉鍵系」のエロゲーが売れれば、メーカーこぞって「泣きゲー」を作り始める。



およそ日本という国は、はるか昔より、長いものにゃ巻かれまくる伝統があるようですなあ。



が。
そんな仏教説話的バッドエンド全盛の室町時代にあって、ほぼ唯一!
愛し合うカップルに、幸せな結末を用意してあげた話が存在します。


その名を呼んで、『嵯峨物語』!


よんどころない事情により長い間はなればなれになっていた貴族カップルが、最終的にヨリを戻してイチャイチャするという筋立て。
しかも、両者とも病気や戦乱などのアクシデントに最後まで遭うことなく、とにかくまあ幸せいっぱいのまま終わるのです。



室町ショタ本がこぞって倣う「結末」は、はっきり言って予定調和すぎます。
現代のBL本を読み慣れた方々からすれば、きっと、どれもこれも実に安っぽいストーリーに見えてしまうことでしょう。
室町期イコール、いわゆる「へぼん」の時代だった……と言っても構わないんじゃないかと。



で、まあ。
『嵯峨物語』もまた、実に単純で素直すぎるエンディングだと言われれば、そりゃ首肯しないわけにはいかないものの……

それでも当方は、『嵯峨』の作者を評価したい。


右も左も「黒!」の一色に染まっている風潮にあって、「いや、別に白でも良くね?」とばかり、自分の書きたいものを書く。
それは、大変に価値ある選択だと思うのです。


そんなフリーダムさと反骨心あふれる精神は、創作の場のみならず人生の様々な局面で見習っていきたいものです。






と、なんとなく深イイ話として落とそうと思ったんですが、ここで残念なことを思い出しちまいました。


これまで『嵯峨物語』は室町後期に成立したと考えられていましたが、最近になって、



「実は江戸時代に書かれた、経歴詐称本」説



が、出てきてるらしいんですよねえ……
なんでも、使われている語彙や文章に、江戸期の男色本の影響が見られるとかなんとか。


ノット叡智の学者、バットただの古典オタたる当方に、その説の妥当性を検討する能力はありません。
ただ、極めて個人的で身勝手な希望を述べれば、やっぱり『嵯峨』すなわち室町時代の「反逆児」であってほしいなあ……っと。



専門家の皆様による、さらなる検証が待たれるところです。









(2012年5月・追記)
と、上記にような記事を書いたところ……
奈良漬先生より以下のようなコメントを頂戴しました。


室町時代の男色物はおっしゃる通り類型的ですよね。
その中で『嵯峨物語』は確かに際立った存在感をみせてます。

当時は今みたいにたくさん本を読める環境ではなかったから、他の作品と読み比べて、あれこれ批評することはなかったのでしょう。
できるような人は極めて少なかっただろうし、そもそも著者は名を明かしません。
近世みたいに営利目的で書くわけではないから、独創性を指向したり著作権を気にすることもありません。
だからパクリでもなんでもかまわず、良かれと思うストーリーを組み立てていったんじゃないかと思います。
それが現実世界における悲劇で終わるのは、従来から言われるように、無常観の表れでもあるでしょう。
当時の恋愛物語の結末は子だくさんで末繁昌となるか、失恋やパートナーの死によって出家遁世となるかにおよそ決まってます。
男色の場合、前者はあり得ないので、必然的に後者に収まるようなストーリー展開に向かうことになったのかも知れませんね。
ただそうなると、仏の道に近づくことになるから、仏教的世界観からすれば、必ずしもバッドエンドということにはならないだろうと考えています。


なるほどー。
「何をもって『バッドエンド』とするか?」の価値観は、大昔と現代とでは当然違うわけで、「古典」を語る時はそのあたりの差異についても気をつけねば……と思ったことでありました。



# by hihonsyudo | 2010-05-26 22:58 | 歴史・古典よもやま話